翻訳と辞書
Words near each other
・ 山田大樹 (アナウンサー)
・ 山田大樹 (内野手)
・ 山田大治
・ 山田大記
・ 山田大起
・ 山田大輔
・ 山田大輔 (写真)
・ 山田天満宮
・ 山田太一
・ 山田太一 (タレント)
山田太一 (脚本家)
・ 山田太一の奇蹟
・ 山田太朗
・ 山田太郎
・ 山田太郎 (ドカベン)
・ 山田太郎 (参議院議員)
・ 山田太郎 (歌手)
・ 山田太郎 (衆議院議員)
・ 山田太郎ものがたり
・ 山田太郎ものがたり 〜貧窮貴公子〜


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

山田太一 (脚本家) : ミニ英和和英辞書
山田太一 (脚本家)[やまだ たいち]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [いち]
  1. (num) one 
: [あし]
 【名詞】 1. leg 
脚本 : [きゃくほん]
 【名詞】 1. script 2. screenplay 3. scenario 
脚本家 : [きゃくほんか]
 【名詞】 1. scriptwriter 2. playwright 3. scenario writer
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
本家 : [ほんけ]
 【名詞】 1. head house (family) 2. birthplace 3. originator 
: [いえ, け]
  1. (suf) house 2. family 

山田太一 (脚本家) : ウィキペディア日本語版
山田太一 (脚本家)[やまだ たいち]

山田 太一(やまだ たいち、1934年6月6日〔 - )は、日本脚本家小説家。本名は石坂 太一〔(いしざか たいち)。東京都台東区浅草出身〔。
== 経歴 ==

*両親は浅草六区で大衆食堂を経営〔〔木村隆『この母ありて』 青蛙房 2010年 230-231頁〕。父親は愛知県〔斉藤明美『家の履歴書 文化人・芸術家篇』キネマ旬報社、2011年、p160〕、母親は栃木県真岡市出身〔〔。
*小学校3年のとき、強制疎開神奈川県足柄下郡湯河原町に家族で転居〔。
*神奈川県立小田原高等学校を経て、1958年早稲田大学教育学部国文学科を卒業〔。
*教師になって休みの間に小説を書きたいと思っていたが、就職難で教師の口がなかった。大学の就職課で松竹大船が助監督を募集していると聞かされ、松竹を受験する〔〔『シナリオ』2007年2月号(シナリオ作家協会)〕。
*松竹に入社後、木下惠介監督に師事〔。木下には現在も敬愛の念を抱いているという〔『逃げていく街』(新潮文庫)〕。
*1960年代前半から、木下恵介の映画をテレビドラマに脚色する仕事を始めた〔。 1965年に退社して、フリーの脚本家になる。
*木下に「連続(ドラマ)を書いてみろ」と言われて、1968年に“木下惠介アワー”枠の『3人家族』を執筆。「プロになろう。絶対当てよう」という意気込みで臨み、高視聴率を上げる。翌1969年の『パンとあこがれ』に携わって、初めて「テレビは面白い!」と思ったという〔『ドラマ』2003年6月号(映人社)〕。
*木下に「書きたいように書いていいよ」と言われて発表した『それぞれの秋』(1973年)〔で、平凡な家庭が崩壊の危機に直面するさまをシリアスに描き、芸術選奨新人賞受賞。
*1976年NHKが脚本家の名前を冠した脚本家シリーズを開始し、その先発に選ばれる。「脚本家の名前が最初に出るということは後々みんなに影響すると思ってね(…)緊張してやった仕事」と回想している〔。“山田太一シリーズ”として発表された『男たちの旅路』は人気を博し、1982年まで断続的に継続した。なかでも 1979年の第4部中のエピソード『車輪の一歩』は、大きな反響を呼んだ。
*東京新聞に連載した小説を自身の脚色でテレビ化した『岸辺のアルバム』(1977年)が、高い評価を受ける。「戦後の日本の社会が一つの家族にどんな影響を与えてきただろうかということをプラスとマイナス両方込めて書いてみよう」〔という意欲を持って執筆。中流家庭の崩壊をリアルに描き、放送史に残る名作とされる。
*1970年代には倉本聰向田邦子とともに「シナリオライター御三家」と呼ばれていた。
*1980年大河ドラマ獅子の時代』を発表。大河ドラマとしては初めてのオリジナル作品となった。作品は好評を博したものの、「二度と大河はやらない(…)僕には向いてない」と思ったそうで〔、ふたたび大河ドラマに登板することはなかった。
*『想い出づくり』(1981年)は24歳の女性たちを主軸にした群像ドラマで、「今考えると嘘みたいだけれども、主人公が複数いるドラマがほとんどなかったんです(…)それで、どの人が主人公かわからないような作品を書いてみようという野心があった」という。裏番組が倉本聰脚本『北の国から』で、二大ライターの対決としても話題になった。本人は「そういう形で競争させられるのは、情けない思い」と述懐している〔『キネマ旬報』2003年6月下旬号(キネマ旬報社)〕。
*『沿線地図』(1979年)などで笠智衆を脇役に起用していたが、「笠智衆さんを主役に仕事をしたいという思いがあって」、『ながらえば』(1982年)を皮切りに『今朝の秋』(1987年)など笠主演のドラマを4本執筆。「他の人も笠さんを獲得したがっている時に、僕が掴まえてしまうんだから(…)いいものにしなきゃという思いは非常に強かった」〔と回想する。
*『早春スケッチブック』(1983年)は、「小市民を非常に否定する存在を出して、その否定に(小市民は)どれくらい立ち向かうことが出来るか」〔を描くという挑戦的な意図で臨んだ。視聴率は低迷したが、視聴者からの手紙や電話などで大きな反響を呼んだ。同じ1983年にスタートした 『ふぞろいの林檎たち』は、大学生の青春群像をリアルに描いて、1997年まで継続する人気シリーズとなる。
*1983年の『ラヴ』で、舞台脚本を初めて執筆。以後はテレビ脚本のほかに、戯曲、小説も平行して発表している。
*ラフカディオ・ハーンを主人公にした『日本の面影』(1984年)で、第2回向田邦子賞受賞。『日本の面影』は1993年に自身の脚色で舞台化されて再演を重ね、2001年にはダブリンロンドンでも上演されている。
*1988年に、小説『異人たちとの夏』で山本周五郎賞を受賞。
*1990年代から2000年代には「連続ものをやめようという気持になってきた。連続の企画を実現させていくプロセスが、自分とちょっと合わないなという気がして」〔という思いがあったようだが、 2009年の『ありふれた奇跡』で12年ぶりに連続ドラマに復帰した。
*映画育ちであるにもかかわらず、名をなしてのち映画の仕事にはほとんど関わっていない。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「山田太一 (脚本家)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.